二代目賢者の参考書~第十四話~


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作者:冴吹稔

 異界から現れてバルドランド王国に知恵をもたらした賢者がいた。もと孤児の養女、メリッサは書記の仕事の傍ら、王都で二代目の賢者としての第一歩を踏み出した。
 彼女を協力者と見込んで期待を寄せる女伯爵、ウルスラ・リンドブルムは目付け役として家臣の一人フェリクスを王都へ派遣する。

 メリッサの兄弟子である特別顧問官ギルベルトもまた、彼女を片腕として師の遺した諸々の課題、難題に対処しようと、メリッサの囲い込みを図っていたからだ。
 
 だがそんな中、王国に思いがけない災厄が海から迫ろうとしていた。


第十四話「古の民」


 日の長い季節とはいえ森の中だ。あたりは急速に薄暗くなっていく。フェリクスは折り重なった枝の向こうに透けて見える、茜色の空を必死で追い続けた。そっちが西で、海があり街道が南北に走る方角――この深い森の出口だ。

 だが馬に乗っていることが今はかえって災いしていた。大木の節くれだった根が至る所にとぐろをまいて、馬の足を引っかけようと手ぐすねを引いている。
 時には何かの動物が掘りぬいた巣穴がコケの下に潜んでいて、踏み込んだ馬の上で乗り手に舌を噛ませようとした。踏み分け道すらいつの間にか消え失せ、彼らの足取りは全く精彩を欠いた、のろくさいものになっていた。

 ――ホーゥ……ホーゥ……

 得体のしれない呼び声が、周囲のあちこちから響いた。それに応えて短く「ホゥ!」と叫ぶ声も次々に聞こえた。
 葉裏を透かした赤い光の中に奇怪な影を目にしたような気がして、フェリクスは肌に粟が立つのを感じた。あれがそうだとすれば――追跡者たちの頭の上には、なにやら鹿のような枝角がそそり立っているように見えるではないか?

 コンラッドは先ほど、自分たちを追っているものを「人間ではない」と言った。では。

「あれはいったい何なんだ?」
 思わず口に出した問いに、コンラッドが答えた。その声も少し震えている。

「はっきりした名前は、僕たちの言葉にはない。だが伝え聞くところでは、ヒベルニアにも同じようなものがいて、そちらは「シー」と呼ばれているそうだ」
「シー……」
「祖母の受け売りだけど、我々の祖先が大陸の中央部から、山脈を迂回してやってくる前から、この地には彼らが住んでいた……今では僕らの方が数が増えて、彼らを森の中や荒野の片隅へ追いやり、そして存在も忘れてしまったんだな」

 でも、彼らは今もいる――コンラッドはそう言葉を結んだ。

 森の中はすっかり暗くなり、枝の間やこずえの向こうに見える空も、茜色から冷たく澄んだ明るいブルーに変わっていた。視界がきかなくなり、二人はとうとう馬を進めることを断念してしまった。無理に走らせれば馬が怪我をする。それは魔法で治せるとしても、治療を施すべき人間(コンラッド)がまず無事で済まない。

 周囲の藪の中、人の胸の高さほどの位置に、次々にたいまつの火が灯りはじめた。

「火種を持ち歩いているんだろうか……意外と文明的だな」
 
 コンラッドが妙なところに感心するが、フェリクスはそれどころではなかった。生きた心地がしない。
「おい、このままでは捕まるぞ……!」

 必要ならば馬を捨ててでも逃げようと、二人は馬上から地面に降り立っていた。だが呼び交わす声とたいまつの明かりは見る間にすぐそばまで近づき、気づいたときには異形の者たちに十重二十重に囲まれていた。

 彼らの頭にはやはり、鹿のような枝角がある。だがそれは別に頭部から直接生えたものではなく、肩まですっぽりと覆った毛皮の上から、鹿の角を飾り付けているものらしかった。

(別に、まったく得体のしれない半獣人というわけではないんだな……?)

 安堵しかけたフェリクスの視線が、「シー」たちの一人のそれとぶつかった。
瞬間、息をのむ。「シー」の見開いた目には白目がほとんど見当たらず、大部分が灰色の大きな瞳で占められていた。その真ん中には大きく開いた瞳孔があったが、たいまつの明かりを受けたそれが、きゅっと縮んで針のように細くなったのがわかった。

 眼の前のものはやはり、狭義の意味での「人間」ではなかったのだ。

「わ、私たちをどうするつもりだ!」

 恐怖に駆られて叫んだフェリクスを、奇妙な感覚が襲った。首筋を温かく大きな舌で舐められたような――それがそのまま頭の中まで入り込んできたような。

 視界が暗くなり、その中に外光を反射する「シー」たちの瞳孔だけが浮かんでいるように感じられた。心の中のむき出しの部分を、その瞳が余すところなく見つめている――そんな印象の後で、突然頭の中を舐めまわす「舌」の感触は消え去った。

「我々に何の用だ……目的はなんだ!?」

 フェリクスは喘ぎながら問いかけを続けたが、それに対する応えはなかった。ただ、くすくすと忍び笑うような声でささやき合うシーたちの気配だけだ。
 と、一団の中でも特に立派な枝角を飾った一人が歩み出てきた。そいつは短く手を振って何事か合図をするようだった。

(言葉は通じないのか……それに今のは一体、何をされたんだ?)

 フェリクスの肩と腕が、シーたちの黒ずんだ長い手指で押さえ込まれる。身をよじって抵抗しながら横を見れば、コンラッドもやはり同様に拘束されつつあった。

「くそ、放せ! 私たちはこんなところでのんびりしてはいられんのだ……!」

そのとき、コンラッドがとんでもないことを言い出した。

「……なあ、フェリクス。ここはひとつ、彼らに捕まってみるとしようか」

「……正気か!?」
「正気だよ。この人数差だ、こっちを殺すつもりならとっくに殺されてるだろう。それにこのまま彼らから逃げおおせたところで、夜の森で迷って獣の餌食にでもなるのがせいぜいだ。むしろ、彼らについていった方が可能性がある」

 コンラッドの声がわずかに震えていることに、フェリクスは気づいていた。この青年にも絶対の確信があるわけではないのだ。それでも――ため息とともに首を縦に振るしかなかった。

「君の豪胆さには驚かされるな……確かに、夜の森を朝まで這いまわるよりは、ましかもしれん」

 今もってなお、森は人間にとっては恐ろしい場所だ。狼や熊に出くわすのならばまだいい方なのだ。
 フェリクスは、リンドブルム家の城の一室に飾られているものを思い出して身を震わせた。主家の初代当主が地方官として着任して間もないころ、近辺の森を荒らしていた飛竜を大変な犠牲を出して退治したという――城にはその怪物の爪が、今なお伝えられている。
 馬と引き離されて、二人は棒のようなものでこづかれながら彼らの促すままに歩いた。腕を背中に回され、手首は革ひもめいたもので縛られていた。
 周囲を取り囲んだシーたちは相変わらずホゥ、ホゥとフクロウの鳴き声を真似たような音を立て、リズミカルに飛び跳ねながら二人を護送した。

 どれほど歩いたのか。やがてフェリクスは、足元が次第に勾配のついた坂道になってきていることに気が付いた。ここがどこなのかもうさっぱり分からなかったが、どうやらこの森は丘陵地にまたがって広がっているらしい。
 レンウッドからダネイヴにかけての地域について、ほとんど何の地理的な知識もないことが悔やまれる。

 不意に森が開け、一団はかがり火をともした広場に出た。丘陵の斜面を切り拓いた、小さな居留地らしかった。火に照らされてぼんやりと黒く盛り上がって見える、麦を刈った後の藁積みのようなものは、彼らの住居だろうか?
 二人はその間を縫うように引っ立てられていき、引率者は不意にいくつめかの「藁積み」の前で足を止めた。戸口に掛けられた毛皮がめくり上げられ、縛られたまま中へ押し込まれる。
 入ってみると、それが野営に使うテントのような、簡単に持ち運べる折り畳み式の小屋だということはすぐにわかった。
 二人はしばらく闇の中で息をひそめて身動きもできずにいたが、そのうちにコンラッドが口を開いた。

「どうやら思った通りだ。彼らは僕たちの命まで取るつもりはないようだよ」
「なぜ、そう思う?」
「うん、さっき捕まる直前に……その、覗きこまれたの、気が付いた?」

 あれか、とフェリクスはうなずいた。奇妙で不快な感覚だったが、ではコンラッドも同じ目にあっていたのだ。

「彼らは、僕らの心を読んだのだと思う。言葉が同じではないから、どこまで通じたのかわからないけれど……あの時僕たちが抱いていた恐怖や敵意を知ったうえでなおこの扱いをしているとすれば、ずいぶん寛容な奴らだよね」
「まあ、そうかもな。私としては自分があの時、剣を抜かなかったのが不思議だ、あんな恐ろしい思いをしたことは今までなかった」
「試されたのかも、知れないね」
「試された……」
「まあ、とりあえず命が延びたと思っていいんじゃないかな?」

 二人はそのまま、それぞれの考えの中に沈み込んで押し黙ってしまった。やがて深い眠りが訪れ、フェリクスは鼻孔をくすぐる食べ物の匂いで目を覚ました。

 縛られたままの腕を持て余しながら、身をよじって起きあがると、小屋の戸口がめくり上げられ、そこに小柄な人影があった。腰が横に幅広く、胸が膨らんでいる――女だ。

「食事を持ってきた。暴れないと約束するなら、戒めを解いてやる」

 驚くことに、彼女はややたどたどしいながら、明らかなバルドランド語を操っていた。


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