二代目賢者の参考書 ~第五話~


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作者:冴吹稔

平凡な現代青年が、異世界に放り出されて幾星霜――
 現代知識を用いて辺境の領地を富ませ、賢者として名を成した彼、シンスケ・マガキは、その人生の終わりに二つの遺産を残した。
  彼の知恵を書き留めた一巻の書物と、彼の名を継ぐみなしごの少女、メリッサ・マガキ。
 シンスケはメリッサに託す。一人の知恵と力では、なし得なかった改革を。世の中の機が熟するまでは、おおやけにできなかった更なる知恵を。
 養父の仕事のその先へ進もうとする少女と、彼女を理解し援助の手を差し伸べる若き女領主の、奇妙な戦いが幕を開ける。


第五話「微行」


 その日も王都は暑かった。

 王宮の正門へ通じる橋の前には、屈強そうな衛兵が六人ほど並び、斧槍を捧げ持って立っている。メリッサは彼らの一人に歩み寄ると、要件を告げた。

「特別顧問官のギルベルト・フォン・グルデン様にお取次ぎください。メリッサ・マガキが訪ねてきている、と」
 兜の面庇を上げてこちらを見つめる衛兵に、彼女は例の『柔らかい壜』を手渡してことづけた。
「これを渡していただけば、こちらのことはお分かりになるはずです」

 怪訝な顔をした衛兵が、王宮内へ消えてから待つことしばし――
 正午の鐘が鳴るとほぼ同時に門が開き、朝議を終えた廷臣たちがぞろぞろと吐き出されてくる。
 その列の中にギルベルトがいた。視線を合わせたメリッサが軽く会釈すると、彼は人込みを縫って滑るように近づいてきた。

「いやはや、あなたのおかげでミュンスター侯爵の陳情がまるで頭に入りませんでしたよ」
「そ、それは申し訳ありません……!」
 思いがけずとがめるような物言いを受けて、メリッサはひるんだ。だが、ギルベルトは表情を緩めてこともなげに言い放った。

「なに、構いません。鉱山の経営がうまくいかないのは、ご本人と部下の責任です……それで、今日は一体どのような用件で?」
 そう言いながら先ほどの壜をふところからとりだし、メリッサの手の上に置くように手渡してくる。
「……ちょっとお時間をいただきます。お話ししたいことが。あと、できれば質素な服に着替えてきてください」
「ふむ? そういえばメリッサ殿の服はずいぶんと……ははあ、身をやつして何か視察に、というわけですね」
 納得した風でうなずくとギルベルトは橋のたもとから少し離れた路地へと、雑踏に溶け込む静かな歩調で歩いて行った。

 再び姿を現した彼は、どこで調達したのかいかにも怪しげな古着に着替えてきていた。連れ立って歩きだした二人は、目抜き通りから下町を抜け、次第に王都の外れ、市壁に近いさびれた区画へと踏み込んでいった。
「メリッサ殿、そのようにどんどん先へ行かれては」
 ギルベルトは眉をしかめてあたりを見回した。この辺りは先王の時代の大火で焼け落ち、復興が不十分なまま治安が悪化の一途をたどっているのだ。

 メリッサは彼の忠告を脇に置いて、単刀直入に質問を投げかけた。
「ギルベルト様。下水道整備計画には、どのくらいの予算が投じられる予定ですか? 大変な工事になるだろうと思うのですけれども」

「うむ、そうですね……」
 顧問官はすこしたじろぎながら、見積もり中の金額を口にした。
「今試算できる限りでは、初期工事費用でざっと千四百リーブラ」

「そんなに?」
 メリッサはめまいを覚えた。年に五リーブラもあれば、王都で五人家族が全く生産に携わらずに暮らせる。
 その二百八十倍と言えば、もはやメリッサには具体的な想像すらできない額である。

 それでなお成功するとは限らず、むしろ新たな災厄を呼ぶのであれば、やはりギルベルトの計画には歯止めをかけるしかない。

「もっと少ない費用でゴミを解決する方法がある、と申し上げればどう思われます?」

「それはぜひお聞かせ願いたいところですが……なるほど、市場のゴミの問題にはすでにお気づきでしたか。しかし、まさか豚でも飼おうというのではないでしょうね?」
「……いえ、全然」
「ならばよかった。隣国エレンブルグならいざ知らず、このバルドランド王国では街中に豚を放し飼いすることは固く禁じられておりますから」

 そういえば、とメリッサの胸に落ちるものがあった。ちょっとした農村程度ならともかく、司教座のあるレンウッドやこの王都など、大きな町では確かに豚を見かけない。ギルベルトは訳知り顔に説明をつづけた。
「それというのも、国王陛下は十二歳の折り街中で豚に殺されかけたことがあるのです。夏場に避暑地へ向かう途中のハンメルゼンという町で、囲いを破って往来に飛び出した雄豚と鉢合わせしたそうでしてね。行列を守っていた軽装の兵士が数人命を落とし、護衛の騎士がたまたま持っていた斧槍で仕留めて、その場を収めた」
「豚に、ですか」
 思わず聞き返してしまうが、考えてみれば当然のことだった。豚というのは要するに、何代か人手で飼われたイノシシに過ぎないのだ。去勢されない種雄豚は途方もない大きさになる。暴れれば人死にが出ても不思議ではない。

「不幸なことに、騎士もその時の傷がもとで翌年に亡くなった……」

「大丈夫です、豚には関わらずに済みますから」

 メリッサは、言葉を選びながら孤児たちと総菜屋の関係を説明した。見る間にギルベルトの顔が不快にゆがむ。

「なんということだ……腐ったものを食えば腹をこわす、その孤児たちでさえそんなことは知っている。知っていながらそれを売り、料理人が儲けのために目をつぶる。怪しからん、実に怪しからんことだ……」
 ぶるぶると震える彼の様子を見て、メリッサは一瞬あらぬ想像を巡らせた――案外、ギルベルト自身も総菜屋を利用したことがあるのではないか?
 同時に、予期したこととはいえ失望感が押し寄せた。この自称兄弟子の考えはやはり、いまひとつ浅い。
 そしてメリッサもまた未熟だった。ギルベルトをうまく説得して協力させねばならないのに、彼女の口を突いて出たのは――
「お言葉が違いますよ、ギルベルト様。『怪しからんこと』ではありません。これは『憂慮すべき問題』なんです」
 頭ごなしにしかりつけるような言葉。言ってしまった後で、彼女は半ば目をつむってうなだれた――ああ、ダメだ私は。

「よくわからんが……どういうことでしょう?」
「ゴミを総菜として流通させ、犯罪に等しい行為を行っている者がいる。そういうご認識でしょうね? では、なぜそんなことが起きるかお分かりになりますか?」

 メリッサは交渉が既に失敗しつつあると感じた。この流れでは、ギルベルトを打ちのめすことはできても、協力を引き出すことは難しくなるだろう。一度口に出した言葉は、次の言葉をある程度定めてしまうものなのだ。

「市場をギルドの統制から外して活性化させ、ゴミが増えれば下水道を建設する……必要なことだと思いますし、立派な施策です。でも、それらを一つのつながりで考え、それぞれが引き起こす影響についても考えないと、問題はあとからあとから増えることになるんです。総菜屋の件は、その中でもごく些細な例に過ぎません」

 そして貧民や孤児はあくまでも守り助けるべき『民』であって、処理されるべき『問題』ではない――そういうふうに言葉をつなごうとした時だった。

「……それも、お父上の教え――「異界の知恵」なのですね?」
 ギルベルトがため息をつく音が聞こえた。

「あなたが羨ましい。私にはわずかな時間しかマガキ様のもとで学ぶことができなかった。得られた知恵もわずかだった……」

 物思いにふける様子のギルベルトに、メリッサは困惑した。これでは話が先に進まない。彼の感傷にかかずらうのは今日の主眼ではないのだ。この後であの子供たちの様子を見せ、ギルベルト自身に考えさせつつ、自分の計画を吹き込むはずだった。

 と、その時だった。ギルベルトが不意にあたりを見回し、小声で鋭く警告を発した。

「しっ!! お静かに……どうも、妙な雲行きになってきたようだ」

 午後の日差しがよどんだ空気を温める裏通りに、かすかな足音と人影が増えていく。二人はいつの間にか、浮浪者とも盗賊ともつかない、みすぼらしい男たちに取り囲まれていた。

「何者かわからんが、私たちはここに足を踏み入れた時から、監視され尾行されていたようだな……」

 ギルベルトが、あたりを見回しながらゆっくりと右手を剣の柄にかけた。