13世紀から18世紀まで、ヨーロッパでは魔女狩りが行われていました。異端審問官や魔女狩り人に魔女とみなされた人々が次々に逮捕され、拷問によって自白させられたのち、火炙りなどの恐ろしい方法で処刑されたのです。では何故、魔女は人々から忌み嫌われるようになったのでしょう。
『図解 悪魔学』(草野巧 著)では、神学としての悪魔学やグリモワールなど、悪魔学のさまざまな事柄について紹介しています。今回はその中から、魔女についてお話します。
目次
魔女とは①-伝統的な魔女と悪魔は無関係?
魔女狩りが始まるのは13世紀ですが、それ以前にもヨーロッパには魔女がいました。ただし、ここでいう魔女は、必ずしも人に害を為す存在ではありません。太古の信仰とつながる呪術者であるシャーマンのような存在でした。
ヨーロッパで見られた伝統的な魔女は、古代ローマのディアナ女神に代表されるような地母神崇拝の系統や、ゲルマン世界での古い森林崇拝の系譜に属し、薬草をつかった治療や天候を操る呪術などを行っていました。自分の意思で悪いことだけではなく、善いことも行っていたのです。
これらの伝統的な魔女は、悪魔と関係がありません。そのため一般の民衆も、魔女を恐れながらも、特別な知識を持った賢者として信仰さえしていました。キリスト教会側の見解としても、民間のデーモン信仰は迷信、幻想であり、罰するには値しないとしていたのです。
しかし魔女狩り時代に入ると、悪魔学者たちが悪魔の手先としての魔女のイメージを固めていきました。この学者たちの巧みさは、過去の偉大な神学者や聖書の記述を使ったところにあります。
神学者のひとりに、トマス・アクィナス(1227ころ~74年ころ)がいます。彼はキリスト教会最大の神学者であり、魔女術の核になる5つの概念の基礎を作っています。
れは「悪魔との性交渉」「空中移動」「動物への変身」「荒天術」「不妊術」である。 『図解 悪魔学』p.44トマス自身は魔女狩りと直接関係ありません。
しかし偉大な神学者や聖書の記述を使うことで、「魔女は悪魔の手先である」という説得力を高めたのです。
魔女狩りの標的となったのは伝統的な魔女ばかりでなく、社会的弱者や金持ちが狙われることもありました。魔女狩りの時代には、魔女と疑われた人はみな魔女にされてしまったのです。
魔女とは②-魔女が作り上げられた社会的背景
魔女狩りは13世紀に始まり、16世紀から17世紀にピークを迎え、18世紀に終息します。逮捕された魔女は10万人にも上り、火炙りにされたといわれています。この背景にあったのは大きな社会不安でした。11世紀以降、キリスト教会は十字軍を複数回派遣していますが、トルコ系イスラム教徒の勢力に敗北しています。1453年にはオスマントルコによってコンスタンチノープルが陥落、東ローマ帝国が滅亡しました。ヨーロッパ内部でも、10世紀から14世紀にかけてボゴミール派、ヴァルド派、カタリ派などキリスト教の異端教派が発生しており、異端者の勢力増大を避けられませんでした。
更に14世紀半ばに入ると、ヨーロッパでペストが猛威を振るいます。
これにより、ヨーロッパの人口の30%近くが失われました。キリスト教徒はこうした状況を悪魔の仕業と考え、悪魔に包囲され集中攻撃を受けているという強迫観念を持つようになったのです。
このような考え方が、悪魔の手先である人間の退治へと繋がりました。異端審問もこの戦いから生まれた産物のひとつです。
しかし異端者を撲滅しても、悪魔への恐怖は去りませんでした。そこで次に魔女が標的とされます。魔女は悪魔の手先として、異端を広めていると信じられたためです。
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魔女とは③-戦いを通して広まった悪魔学
悪魔学自体は、古くから存在していました。ただし当初の悪魔学は、神に対するアンチテーゼとしての悪魔であり、神学の一部として、神学者の考える悪魔について考察する学問でした。しかし、中世の間に悪魔のイメージは一般民衆の間にも広まっていきます。そして異教徒や異端派との戦いを通して、悪魔は一層具体的で、誰にとっても恐ろしいものに変わりました。悪魔学がひとつのジャンルとして確立したのです。
1486年にはシュプレンガーとクラマーにより、『魔女への鉄槌』が世に登場しました。この書以降、『魔女の悪魔狂』『魔女論』など、魔女と悪魔を扱った悪魔学書が数多く書かれています。これにより、魔女が悪魔の手先であり、異端を広めているというイメージが広く共有され、魔女妄想が不動のものになっていきました。
本書で紹介している明日使える知識
- 悪魔の原型アーリマン
- 黙示録の獣
- 悪魔学の多様化
- 悪魔にも家族はいるのか?
- 悪魔の数字666
- etc...