2018年の大河ドラマ『西郷どん』、皆さんご覧になっていますか?
鈴木亮平さん演じる西郷吉之助(隆盛)を中心に、島津斉彬、岩山糸ら魅力的な登場人物たちが織りなす物語からは毎週目が離せません。
今回はそんな『西郷どん』の登場人物の中から大久保利通に焦点を当て、その人物像にせまります。史実に残る大久保利通がどんな人物だったのかがわかれば、毎週のドラマ観賞がもっと楽しくなりますよ!
目次
冷徹なリアリストにして政治工作が得意な大久保利通
大久保利通は文政13年(1830年)8月10日、薩摩藩の下級藩士の子として生まれました。幼い頃から郷中では学問に秀でた秀才で、西郷隆盛とは共に学問に励んだ仲間です。そんな大久保利通の性格がよくわかるエピソードをご紹介しましょう。
島津斉彬が急死し、久光と保守派が薩摩藩の実権を握るようになると、これに対抗するために急進派の若者たちは精忠組という徒党を組みました。大久保利通は西郷隆盛とともにこの一派に加わり、幹部となりますが、藩内で精忠組が孤立するのを避けるために、あえて久光に接近しようと目論みます。
そのために大久保利通が選んだ手段は囲碁でした。彼は久光の遊び相手である吉祥院から囲碁を習い、久光がとある本を読みたがっていると聞くと、その本を手に入れ、本の間に自分たち精忠組の主張をまとめた手紙を挟んで吉祥院経由で久光に渡します。この手紙が久光の目にとまったことがきっかけで、精忠組は久光に認められることとなりました。
ところが文久2年(1862年)に起きた寺田屋事件では、精忠組の同志複数名が久光によって殺されたり処刑されたりしてしまいます。しかし利通は現実を見据え、久光に意見することなく沈黙を守りました。冷徹でリアリストだった利通の性格がうかがえるエピソードです。
そんな利通の手腕について、徳川慶喜は「わが陣営に西郷や大久保ほどの者がいるか」と嘆いたといわれています。また親友の西郷は利通のことを建築に例え、「家を築造したり、ぶち壊すのは自分の方が上手だが、内部整備なら大久保の方がはるかに上だ」と評しています。利通は裏工作を得意とし、政治上手な人物でした。
明治10年(1867年)の西南戦争では、親友・西郷隆盛を敵に回すことになりますが、利通はこの時も冷徹に鋼の意思を貫き通し、日本の近代化のために戦争の指揮を執りました。
彼は常に大局を見据え、私情に流されることなく行動した男だったともいえるのではないでしょうか。
とはいえ幼い頃から兄弟のように過ごし、西郷隆盛が何度失脚しても見捨てずに引き上げようとした大久保利通を思うと、本心はいかに悲痛なものであったか計り知れません。
事実、西郷の死の報をうけた大久保利通は「私ほど西郷を知っている者はいない」と号泣したと伝わっています。
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大久保利通が暗殺された理由とは?
日本の近代化のために尽力した大久保利通でしたが、明治11年(1878年)に47歳で暗殺されてしまいます。彼が暗殺される直前、各新聞社に「斬奸状」が届きます。そこには石川県の政治結社・忠告社の分派、三光派の面々の名前で、大久保利通が私利私欲のために政治を牛耳っているなどと書かれていました。
暗殺される2日前には利通本人のもとにも予告状が届きます。しかし利通はこれを単なる嫌がらせと判断し、大して気にも留めませんでした。
5月14日、大久保利通は参議の仕事をするために赤坂離宮に出掛けます。暗殺者たちは赤坂見附から清水谷へと続く道の途中にある共同便所に身を潜め、利通を襲撃しました。襲われた時、大久保利通は西郷からの手紙を読んでいたといわれています。
利通の遺骸は17日に出棺され、東京の青山墓地に埋葬されました。この事件は俗に「紀尾井坂の変」と呼ばれています。
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遺産どころか借金だらけ 清廉潔白だった大久保利通
三光派の暗殺者たちは、大久保利通が私利私欲のために政治を牛耳り、私腹を肥やしていると考えていましたが、実際はどうだったのでしょう?利通の死後、親族たちが遺産を調べてみると、現金はわずか140円(約500万円)しかありませんでした。おまけに家も土地も抵当に入っており、借金が8,000円(約2億8,500万円)もあったといわれています。
利通は個人的に借金をし、新国家建設のためにつぎ込んでいたのです。債権者たちはそれを知っていたため、借金の返済を遺族に求めなかったといいます。私腹を肥やすどころか、利通は清廉潔白な男だったのです。