クトゥルフ四方山話 「第一夜:H・P・ラヴクラフトの青春」




目次

■ラヴクラフトの誕生

まず、1人の幻想作家の話から始めなくてはならない。
名前はハワード・フィリップス・ラヴクラフト。我々がクトゥルフ神話の祖として崇める人物である。HPLとも略される。 彼は、1890年8月20日、アメリカ北東岸、ロードアイランド州プロヴィデンスに、その前年に結婚したウィンフィールド・スコット・ラヴクラフトとサラ・スーザン・フィリップスの一人息子として生まれた。

父ウィンフィールドは、銀細工商の営業としてアメリカ各地を飛び回っていた。出張続きとアメリカ全体の好景気もあり、一ビジネスマンとしてはそれなりの高収入を得て財産もなしたが、1893年、突然、病気に倒れ、入院することになる。
一方、妻のサラは経済的には恵まれながらも、帰らぬ夫を待つ生活の中で一人息子を溺愛するようになっていた。

■祖父の邸宅にて

ウィンフィールドの入院後、サラは3歳の息子ハワードとともに、ロードアイランド州プロヴィデンスの実家に戻り、父親のウィップル・ヴァン=ビューレン・フィリップスのもとに身を寄せる。 ウィップルは不動産その他のビジネスで財をなし、郵便局長、州議会の代議員などを努め、エインジェル・ストリートに大邸宅を構えていた。1878年にはパリ万国博覧会に行き、ヨーロッパ各地を広く旅した。イタリアを深く愛したという。

ハワード少年は、各地を旅し、ゴシック・ロマンスを愛好した祖父の書斎に入り浸り、幼い頃から物語や書物に親しんだ。 6歳から自分でも物語を作るようになった。
彼はここで、古典の本を読むうちに、英国へのあこがれを育てていく。彼は王党派を名乗り、イギリス紳士としての生き方を目指すようになる。

8歳のクリスマスには母から『アラビアン・ナイト』を与えられた。これは彼が記憶する中で初期に強く影響された作品に挙げられる。だが、ラヴクラフトの興味は徐々に科学へと向かい、同じ年に化学実験セットを買ってもらうと、家の地下室に化学実験室を作って遊ぶようになった。
科学への興味は長く続き、9歳で手書きの雑誌を造り、化学の記事を書く。13歳の時には自分で簡易印刷の雑誌を作るほどになり、16歳になると新聞への投稿を始め、天文学の記事を新聞に連載するようになった。

■幸福な時代の終わり

ウィップルの家で過ごした時期は、おそらく、ラヴクラフトの人生の中でもっとも豊かで幸せな時代であっただろう。だが、祖父ウィップルは、1901年頃、ダム建設事業が破綻し、続く農業用感慨水路建設が頓挫しかけた1904年、急死してしまい、事態は一変する。 ダムや灌漑水路の負債で、ウィップルの会社は倒産、エインジェル・ストリートの大邸宅は失われ、母子は同じエインジェル・ストリートにある狭い家に転居することになった。14歳のハワード はここで多くの物を失い、自殺すら考えたという。

引っ越し先での生活は陰鬱なものとなった。
まだ、都市部の富裕層において、女性の社会進出そのものが少ない時代、豊かな家に生まれたサラは自ら働いてお金を稼ぐことが出来ず、夫と父の残した遺産で暮らしていた。
このことが彼女のストレスとなり、徐々に精神を病んでいくことになる。

彼女は1919年に入院し、21年に病院で死亡するが、祖父の死で家を失い、引っ越した家での、閉塞した家庭での生活によるストレスで、ハワード自身も神経症とされる不調を発してハイスクールからドロップアウトしてしまう。後に、ハイスクールに再入学するが、結局、長続きしなかった。その後、化学の通信教育過程を受けるも、大学受験するまでには至らなかった。

■アマチュア・ジャーナリズムの世界へ

隠遁生活を送るハワード 青年は小説雑誌を読みふけり、パルプ雑誌の読者欄に投稿するようになった。 1913年、アーゴシー誌の投稿欄に、「アン女王に捧げる散文」と呼ばれる。1,300語ほどの手紙を送った。これは人気作家のフレッド・ジャクソンの定番ラブロマンス作品を糾弾したもので、続く「ジャクソンのエロ小説の粗末さ」では、「これに比べれば、雑誌に掲載されるすべての小説がミルク・トーストのように優しい存在と言える」とすら言い放った。
これをきっかけに、読者欄で擁護派との激論が展開され、ラヴクラフトは一躍、毒舌の論客として知られるようになった。

この時の論戦の縁で、翌1914年4月、アマチュア文芸家の交流組織「ユナイテッド・アマチュア・プレス・アソシエーション(UAPA)」に入会して、詩、レビュー、論説を多数執筆し、活動した。
母親の手前、余り外出できなかったが、評論や編集の面で辣腕を振るい、アマチュア・ジャーナリズムの世界で注目されるようになる。日本的に言えば、アマチュア創作同人の世界で、しばしばアマチュアダム(アマチュア+キングダムの造語)と呼ばれる。
1919年には会長の座につくが、毒舌が災いして、再選されることはなく、彼はプロデビューに向かって邁進することになる。
また、アマチュア・ジャーナリズムの活動中に出会った年上の女性ソーニャ・グリーンと親しくなった彼は、母を失った悲しみを癒すように、彼女と恋愛関係になり、駆け落ち同然で結婚することになる。彼はそのまま、ソーニャとニューヨークで暮らし始め、ケイレム・クラブの若手作家との交流を広げていく。

ラヴクラフトは、アマチュア・ジャーナリズムの時期に知り合った多くの人々と、手紙回覧型の創作同人サークルを作った。郵送の順番を決め、原稿を書いては次の人へと送り合うもので、リレー小説のような試みも出来たし、作品に関するコメントをもらうことも出来た。まだコンピュータ通信もなく、国内旅行の速度も限られた時代、遠隔地の友人と創作を行うという活動をラヴクラフトは愛し、それはデビュー後の商業作品ですら行った。 

ラヴクラフトはハイスクールからドロップアウトし、後年、文通の中で、隠遁者のように振る舞ったため、完全な隠者という印象が強いが、20代中盤の彼は、アマチュア・ジャーナリズムの世界で大活躍していたのである。S・T・ヨシ『H・P・ラヴクラフト大事典』によれば、現在でも、アマチュア・ジャーナリズムの世界では、ラヴクラフトはある種の巨人として語り継がれているという。