【アイリスの夢百夜】第七夜『紫の雲』


『紫の雲』
(M・P・シール 著/ 南條 竹則 訳)




March 31,2019


親愛なるお姉さまへ


長かった冬もようやく終わって、やっと春がやってきたわね。わたくしとってもすがすがしい気分で、今ならなんだってできそうよ! 春は挑戦の季節。お姉さまはなにか新しく始めたいことってあるかしら?

いくら素敵な春とは言っても、季節の変わり目って気分が落ち込みやすいもの。わたくしもなんだか憂鬱で、人と会うのが億劫よ。いっそみんないなくってしまえばいいのに……なんて、これは冗談だけれど、ありえないことを想像して楽しんでしまうことってあるわよね。でも、ありえないと思っていたことが現実に起こってしまったら、どうかしら?


今月はお姉さまに、自分以外の人間が死に絶えた世界を彷徨う男の物語、M・P・シールの『紫の雲』を紹介するわ。


“私は思った。もしも“大洋”からの波が地球という惑星の船を洗い、私はたまたま船首にいたため、ただ一人生き残った乗組員なのだとしたら? ……その時、神よ、私はどうすれば良いのだろう?”


主人公であり語り手であるアダムは、ロンドンに暮らす医者。彼は年上の恋人クローダにそそのかされ、北極探検へと向かうことになるの。厳しい北極圏の環境で息絶えていく仲間たちをよそに(彼はなかなかの冷血漢なの)、ただ一人北極点へたどり着いたアダムが乗ってきた船へ戻ると、乗組員は全員死んでいた。不審に思いながらも故郷へと戻るべく船の旅を進めるのだけれど、海上で出会う船にも生きている人間をまったく見つけることが出来ない……。

どうやら謎の毒の雲が原因で、地上の動物は死に絶えたらしいの。ちょうどその時に北極点にいた、アダム一人を除いて。

彼は自分以外の生存者を探しに旅に出るのだけれど、だんだんとそれにも飽きてしまい、今度は世界中の都市という都市を時限爆弾を使って燃やし尽くすことに熱を上げ始めるのよ。死体や無人となった街の様子の描写が延々と続くから、なかなか主題が見えてこなくて読みづらい面もあるのだけれど、この執拗さがなかなか興味深くて面白くもあったわ。


長い年月をたった一人で過ごしていたアダムは、ある時美しい少女と出会うの。彼女は毒の雲が発生した時にはまだ赤ん坊で、偶然にも密閉された空間にいたから助かったということ。最初に出会ったときは言葉すら話せなかった彼女は、アダムと親しくなるにつれ持ち前の利発さで言葉を覚え、のみならず裁縫や料理なども次々と習得していくの。

無垢に自分を慕ってくる彼女(のちに自らをレダと名付ける)にアダムは惹かれるのだけれど、長い間孤独であったせいなのか屈折した感情を抱いていて、人類を憎んでもいるの。だからレダと自分が結ばれることにより、ふたたび人間を地球に増やすことを恐れるアダムは、彼女と離れようとするのよ。

果たしてアダムとレダは最後の人類となってしまうのか? アダムを求めるレダとレダを遠ざけるアダム、いったいどちらに神は味方するのか? 次第にレダのペースに飲まれていってしまうアダムの様子が可笑しく、極限状態での女性の強さというものを感じたわ。ちなみにあとがきで翻訳者の南條さんは、『紫の雲』は一種のフェミニズム小説と言えるかもしれないと書いているわ。そういうふうに読んでみるのも面白そうね。


この小説は幻想文学の金字塔と呼ばれていて、長年ファンの間でも邦訳が待ち望まれていたそうよ。奇妙なストーリー展開に最初は戸惑うだろうけれど、最後まで読むと今までにないような奇妙な感慨に浸ることが出来たわ。

ぜひお姉さまも、この稀有な幻想小説を読んで唯一無二の体験をしてみてね。


愛を込めて
アイリス


◇書籍紹介



邪恋と功名心に駆られ、北極点を目指すアダム。だが、何処からか毒の雲が立ち昇り、地上の動物は死に絶えた。ひとり死を免れたアダムは、孤独と闘いつつ世界中を旅する。生存者を求めて―。異端の作家が狂熱を込めて物語る、世界の終焉と、新たな始まり。
(「BOOK」データベースより)

定価:2,592円
発売日:2018年12月
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◇アイリスの夢百夜
第一夜:『アイリーンはもういない』
第二夜:『飛ぶ孔雀』
第三夜:『こうしてイギリスから熊がいなくなりました』
第四夜:『ホール』
第五夜:『エイリア綺譚集』
第六夜:『ピクニック・アット・ハンギングロック』


Irisについて


グルノーブルで700年続く名家に生まれ、不自由のない幼少時代を過ごす。
大好きな姉が2年前にイギリスへ嫁いでしまい、アイリスは従者と共に1年間日本へ留学することになった。

遠い島国から、姉へ向けて毎月一通の手紙を書いている。お気に入りの本の感想を添えて……。