天下に五剣あり! ――名刀に輝きを添える伝説たち

名刀

名刀と呼ばれる刀があります。
その魅力を後世に伝えるには、名刀にふさわしい伝説が欠かせません。他とは異なるエピソードが名刀のすばらしさを際立たせ、より高みへと掲げ、その刀身をより輝かせるのです。 
『名刀伝』(牧秀彦 著)では、日本刀を中心に槍、弓など約80本をピックアップし、刀と持ち主である武将とのエピソードを交え、その魅力を紹介しています。今回はその中から、「天下五剣」にまつわるエピソードを紹介していきましょう。

目次

酒呑童子の首を一太刀で落とした名刀

最初に紹介するのは、天下五剣筆頭と言われる、「童子切安綱(どうじきりやすつな)」にまつわる伝説です。 

「童子」とは「酒呑童子(しゅてんどうじ)」のことで、「安綱」は作刀者の「大原安綱(おおはらやすつな)」の名だと考えられます。すなわち、名工安綱の手によって作られ、酒呑童子の首を切った刀ということです。
童子切安綱 は西洋であれば、竜殺し「ドラゴンスレイヤー」とでもなるでしょうか。人では歯が立たない相手を屠った伝説は、名刀に似つかわしいと言えるでしょう。 

伝説によると、 源頼光は大江山に棲む鬼一族の討伐に向かい、見事に酒呑童子の首を落としました。神使鬼毒酒(じんべんきどくしゅ)で鬼を酔わせ、鉄鎖で縛って身動きを封じてからとはいえ、鬼の首を一太刀で斬り落としたというのだから、頼光の技量、刀の斬れ味、ともにどれほど優れたものであるかわかろうというものです。 

ただこの酒呑童子は、鬼ではなかったともいわれています。
ちなみに、江戸時代の名刀集成本『享保名物帳(きょうほうめいぶつちょう)』では童子切安綱の由来を、
「丹波大江山に住す通力自在之山賊を源頼光公此太刀にて討し故と申伝也」 と解説している。頼光が斬ったのは鬼ではなく、いかに幻術を駆使するとはいえ、しょせんは生身の人間だったと考えるのが、いちばん自然な解釈なのだろう。 『名刀伝』p.22~23
としています。
酒呑童子伝説の真偽は定かではありませんが、巨大な鬼の首を両断したと伝えられるのも当然と思えるほど、童子切安綱に迫力が満ちているのは事実でしょう。

霊力と剛力をあわせもつ重宝の名刀

次に、三池光世(みいけみつよ)に作られた名刀「大典太光世(おおでんたみつよ)」 を紹介しましょう。
こちらは、名刀の所有に関するエピソードです。

豊臣秀吉秘蔵の名刀が、加賀百万石の前田家の家宝となった経緯には、2つの説があります。 
ひとつ目は「肝試し」説。
伏見城の千畳敷きの間の廊下に物の怪が出没し、深夜に1人で渡ろうとすると 鞘を何者かにつかまれ、前に進めないという噂がありました。
前田利家は自分が押し渡り、証拠に加藤清正から借りた軍扇を置いてこようと宣言したのです。秀吉はその豪胆な振る舞いに感心し、肝試しに差していけと大典太を渡します。
問題の廊下に出向いた利家は何事もなく戻り、晴れて名刀を所有する運びとなった――という話です。 

ふたつ目は「病魔祓い」説。
こちらは前田家の記録にあるものです。
第3代藩主の利常が娘の重病を治すため宝刀の霊力にすがろうと、徳川秀忠から借り受けました。そして、娘の病が再発するたび刀の拝借を願い出て、3度目にはついに譲られたといいます。

ちなみに、前出の『享保名物帳』では、これを利家と秀吉の間の出来事、という解釈をとっています。 
名刀に複数の由来があるのは珍しくありませんが、どちらもこの刀にこめられた霊力が窺えるような説であることが興味深いですね。簡単には人に与えられない価値あるものだからこそ、名刀が譲られるときには大きな理由が発生するのでしょう。 

もちろんこの名刀は武用刀としての威力もあります。
徳川幕府の御様御用首斬り役・山田朝右衛門吉睦は三つ胴で二体を断ち、みぞおちの少し上を狙って斬り下げた薄刃は、一番下の死体の背骨で止まったという。また、人体の中でも斬り難いとされる骨盤を一刀両断し、切先が下の土壇にまで五寸(約十五センチ)ほど切り込んだというから凄まじい。 『名刀伝』p.29
宝刀であり剛刀でもあるのが、この大典太光代の魅力と言えるでしょう。

伝説の刀工が作った気品ある名刀

天下五剣、3番目に紹介するのは、徳川家に長らく伝来し、現在は国宝指定を受けている名刀、「三日月宗近(みかづきむねちか)」です。
三日月という異名は、独特の刃文に由来しています。刀文の下半分に見られる焼刃の模様が三日月形をしており、細見で反りが高い、平安時代の太刀の典型といわれる優美な一振りは、見る者の目を引き付け離しません。

作刀者は「三条宗近(さんじょうむねちか)」。 今回の伝説は、刀自体ではなく刀工にまつわるものとなります。三条宗近が世に広く知られるようになった謡曲『小鍛冶』の内容を引用しましょう。
夢のお告げを受けた一条天皇の指名により、三条宗近は作刀を命じられた。しかし、御剣を鍛えるともなれば自分と同等の技量を持った相槌が必要だ。困り抜いた彼が氏神の稲荷明神に参詣したところ、不思議な童子が現れて、力を貸そうと励ました。翌日の夜、明神の眷属である狐が化けたと思われる童子は約束通りに姿を見せ、見事な技量で相槌を務め上げる。かくして完成した太刀の佩表に「小鍛冶宗近」、裏には「小狐」と銘を切った。その出来映えを褒めたたえた童子は、我こそが稲荷明神であると告げ、雲に乗って稲荷山へ帰って行った……。 『名刀伝』p.30~31
真偽のほどはともかくとして、実に魅力的な伝説ですね。
藤原一族の九条家が吉剣として秘蔵したと伝えられる「小狐丸」は残念ながら現存していません。
ですが、三日月宗近には伝説の名工の在りし日の面影をしのばせる気品があり、匠の技があります。
群を抜いた美しさは、まさに名刀中の名刀と呼ぶにふさわしいと言えるでしょう。

名刀

破邪顕正――僧に所持された優美な名刀

天下五剣の中でも異色の一振りというべきなのが、「数珠丸恒次(じゅずまるつねつぐ)」です。
数珠丸のエピソードとしては何といっても、日蓮宗の開祖である日蓮上人の愛刀であったことがあげられるでしょう。
どうして仏門に帰依した身で、剣呑な太刀を常に持っていなくてはならなかったのか。仏敵からわが身を守るためという可能性も考えられないではないが、破邪顕正の剣として佩用したとの説が、やはり正解だろう。 『名刀伝』p.32
破邪顕正とは、不正を打破し、正しい行いを示してそれを守ること。仏教用語では、邪説を打破し、正しい仏教の道を示すことです。
数珠丸の名の由来は、日蓮が柄に架けていた数珠からだといいます。封印ともいうべき長い数珠を架けることによって、不用意に鞘走らせないよう日蓮は自らを戒めていたのかもしれません。 

数珠丸は鎌倉時代初期の作と伝えられていますが、前の平安時代の作風を失っていないのも特徴です。
平安文化が生んだ太刀は元幅が広くて先端が狭い、踏張りのある外見を為している。この踏張りが、優美な太刀姿となるための必須条件なのだ。 『名刀伝』p.33
武用刀ではないため、この刀にはめざましい武勇伝はありません。
それでも数珠丸が、天下五剣に数えられる、優美な太刀姿を持つ逸品であることは間違いないでしょう。

名刀

皇室御物の宝剣――名刀「名物鬼丸」

天下五剣の最後に紹介するのは「鬼丸国綱(おにまるくにつな)」です。
鬼丸の号の由来となるエピソードは、これまた名刀らしいもの。

北条時政は夜な夜な枕元に現れる小鬼の悪夢に悩まされ、心労で倒れてしまいました。
ある夜、太刀の化身から、刀身が錆で汚れているために時政を救えないと告げられます。 そこで太刀を家臣に清めさせ、抜き身のまま居間の柱に立てかけました。
火鉢を引き寄せて、暖を取りながら夜の訪れを待っていると突然、太刀が目の前に横倒しになった。果たして、倒れた太刀は火鉢の台になっている小鬼の像の頭部を、ものの見事に斬り落としていたのである。この小鬼の像こそが、時政に悪夢を見せていた元凶だったのだ。 『名刀伝』p.33
かくして悪夢は去り、時政が鬼丸と名付けた太刀は北条家の家宝となり、代々の当主に継承されたのです。

その後、鬼丸国綱を手にした持ち主たちを見ていきましょう。
北条高時は自刃の際、北条家の再興を期して嫡男にこの名刀を託しました。
しかし悲願は果たせず、その後、新田義貞の手に渡り、名刀・鬼切とともに佩用されました。
義貞が戦死すると、敵将の斯波高経の手に落ちます。高経は足利尊氏より再三鬼丸を渡すように要求されても応じず、ついに反旗を翻しますが、結果は降伏。鬼丸も足利家に献上されたものと思われます。

戦国期の鬼丸国綱の流れは定かではありませんが、織田信長、やがては豊臣秀吉の手を経て、刀剣鑑定の大家・本阿弥光徳の預かるところとなりました。
流転劇は名刀の宿命ですが、時の権力者の示した執着も、鬼丸国綱を名刀たらしめているエピソードといえるのではないでしょうか。


 本書で紹介している明日使える知識

  • 小鳥丸
  • 不動行光
  • 一期一振
  • にっかり青江
  • etc... 

ライターからひとこと

今回は天下五剣を紹介しました。斬った相手、譲渡の経緯、刀工、持ち主、悪夢断ちなど様々なエピソードが各名刀にあります。
名刀だから伝説が生まれるのか。伝説によって名刀が生まれるのか。いずれにしろ、名刀にはそれにふさわしいエピソードがつきもののようです。姿かたちだけでなく、名刀にまつわるエピソードもあわせて知ると 、より一層楽しめることでしょう。